Masuk「……叔父様」
「おはよう、瑠理子ちゃん。今日も綺麗だね」
二郎はかつてと何一つ変わらない、温かみに満ちた笑顔を浮かべていた。 厳格で感情を表に出さない父とは対照的に、二郎はいつでも親しみやすく、包容力のある“理想の叔父”だった。 幼い頃に父と意見がぶつかったときも、会社を継ぐプレッシャーに押し潰されそうになったときも、そして前世で父に淳との交際を猛反対されたときでさえ――。
『好きな人と生きていきたいと願うのは、人として当たり前の幸せだよ。僕が兄さんを説得してあげるからね』
そう言って優しく頭を撫で、味方になって背中を押してくれたのは、紛れもなくこの二郎だった。 だからこそ瑠理子は、前世の最期の瞬間まで、叔父を家族の中で唯一無二の理解者だと信じ切っていたのだ。
――だというのに。
悪意など微塵も感じられないその穏やかな笑みを見た瞬間、瑠理子の肌が粟立ち、首筋に冷や汗が伝った。
(どうして……?)
明確な裏切りの記憶があるわけではない。前世の破滅の渦中でも、叔父は最後まで自分たちを助けようと奔走してくれていたはずだった。 それなのに、一度地獄の底を味わった魂の奥底が、警鐘を鳴らすように激しく警報を発している。
――信じては駄目だ。 何かがおかしい。この無邪気な優しさに、二度と身を委ねてはならない。
「淳君」
二郎は瑠理子への気遣いを崩さないまま、玄関に佇む淳へと向き直った。その眼差しは、不憫な境遇の若者を心から憐れんでいるようにしか見えない。
「大変だったね。一人でよくここまで耐えてきた」
「……はい」
「君のお父上には、私自身も昔ずいぶん世話になったんだ。遠慮することはないよ。今日からはここを自分の本当の家だと思って、ゆっくり心を休めるといい」
二郎は優しく淳の肩に手を置き、労わるように二度、三度とぽんぽんと叩いた。 淳は感情を押し殺したまま、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます。海原さん」
「二郎叔父さんと呼んでくれてかまわないんだよ。親戚のおじさんとでも思ってくれたらいい」
微笑ましい光景に、父も表情をわずかに緩めている。 だが、そのやり取りを見つめる瑠理子の胸には、冷たいざらつきが広がるばかりだった。
(そうだわ……前世でも、叔父様は最初から淳を歓迎していた。父以上に彼を庇い、海原家へ迎え入れたのも……)
「瑠理子ちゃん」
不意に名前を呼ばれ、瑠理子ははっとして視線を上げた。二郎は相変わらず、物分かりの良い大人そのものの優しい瞳で瑠理子を見つめている。
「淳君と今すぐ仲良くしろとは言わないよ。ただ、少しだけ彼に時間をくれないかい?」
「時間……ですか?」
「人は誰だって、正体の分からないものを警戒し、怖がるものだからね」
二郎はいたずらっぽく笑みを深めた。
「お互いを知っていけば、案外、いつの間にか好きになっているかもしれないよ」
――ドクン、と心臓が跳ね上がった。
好きになる。 その言葉通り、前世の自分は警戒を解き、彼を信じ、命を捧げるほど愛してしまったのだ。その末路が、海崖からの投身となるなど、夢にも思わなかった。
瑠理子の唇から、凍りつくような冷たい拒絶が零れ落ちた。
「私がこの人を好きになることだけは、絶対にありません」
ぴくりと、俯いていた淳の肩が跳ねた。 彼が思わず上げた黒い瞳に、隠しきれない激しい動揺の色が走る。
(なぜ、そんな傷ついたような顔をするの?)
(あなたはまだ私を知らないはずでしょう。それに、あなたは私の父を、両親の仇だと思っていたはずなのに……どうしてそんな辛そうな顔をするの?)胸を締めつける痛みを押し殺し、瑠理子はすっと視線を切った。
「失礼します」
階段へ向かおうとした、そのときだった。
「兄さん」
二郎が何気ない調子で父へ声をかける。「そういえば、義昭さんの荷物の整理をしていた業者から連絡があったよ」
瑠理子の足が止まった。
「荷物?」
「ああ。義昭さんが会社から持ち帰っていたらしい資料が、いくつか見つかったそうだ」淳が振り返る。
「父の資料ですか?」
「仕事関係のものらしい。古い帳簿や送金記録だと聞いたよ」
二郎は困ったように笑った。 「もっとも、一部は抜けているらしいけどね」 瑠理子の胸がざわついた。 「抜けている?」 「肝心なところだけ、何枚か見当たらないそうなんだ」 「叔父様。その資料、今どこに?」 瑠理子は思わず聞いていた。二郎が瑠理子を見る。一瞬だけ、その目から笑みが消えた気がした。だが、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。
「会社で預かっているよ」
「私にも見せて」 「瑠理子ちゃんが?」 「橘さんは海原グループの役員だったのでしょう。後継者として、私が見てもおかしくないわ」 父が怪訝そうに瑠理子を見た。 「お前が会社の資料に興味を持つとは珍しいな」 しまった! 二十八歳の気分で話してしまったが、今は十八歳なのだ。前世の十八歳の自分は、経営にまるで興味がなかった時代。
瑠理子は平静を装って微笑んだ。 「私だって、いつまでも子供ではありません」「そうか」
二郎は笑った。「機会があれば、見せてあげるよ」
その曖昧な言葉が、妙に引っかかった。見せる気はない――そんな雰囲気に思えた。
「どうして離れるの!? あなたたちだって瑠理子ちゃんを責めてたでしょう!?」 女たちの顔が強張る。しかし、直之の援助の件もあり、一人が声をあげた。「だからって、最初から窃盗犯にする計画だったなんて知らなかった!」「私も」「百合絵さんが本当に被害者だと思ってたから」「そうよ」「私たちまで利用したの?」 百合絵に今度は令嬢たちが攻撃の声を荒げる。「ひどいわ!」「利用なんてしていないったら!」「したじゃない!」 彼女たちの声が大きくなる。「ブレスレットで煽って!」「暴力までやらせて!」「都合が悪くなったら全部私たちのせいにしたでしょう!」 おかしい。 さっきまで瑠理子へ向けられていた攻撃が、今。 百合絵(じぶん)に返っている。「百合絵さん、酷すぎる」「信じられない」「友達だと思ってたのに」「私たちを捨て駒にしたんだ」
「報酬はあったのか?」 直之が聞いた。「はい……五十万円です」「受け取った?」「はい」「現金?」 警備員が頷いた。「どこで?」「同じ地下駐車場で」 百合絵が叫ぶ。「現金なんて証拠にならないでしょう!」 直之がゆっくり振り返る。「ずいぶん詳しいね」「……え?」「僕はまだ、現金に証拠があるなんて一言も言ってないけど」「……!」 百合絵の口が閉じた。直之は警備員へ尋ねる。「封筒は?」「残しています」「中身も?」「……まだ一円も使ってません」「なら後で警察へ渡して」「はい」「ちょっと!」 百合絵が焦った声を上げる。「待ってよ!」「何?」「そのお金が私からだって証明できないでしょう!」 まだ逃げようとするのか――直之は小さく息を吐いた。「本当に君は最後まで諦めないね」「だって事実だもの!」「じゃあ」 スマートフォンを操作する。「地下駐車場の映像も出そうか」「……!」 百合絵が固まる。「三日前の午後七時過ぎ、警備員と百合絵が接触している映像が残ってる」「……」
「……話します」 長い沈黙の末、警備員が低い声で言った。百合絵の肩がびくりと跳ねる。「待って!」「百合絵」 直之が睨む。「黙ってろ」「でも!」「次に邪魔したら、会場の外へ出てもらう」「……っ」 直之の言葉に、百合絵は唇を噛んだ。 警備員へ視線が集まる。「まず確認する」 直之が尋ねた。「御堂家のカメオを、保管場所から持ち出したのは君だね?」「……はい」 ざわっ ざわっ 会場が揺れた。「やっぱり……」「警備員が?」「じゃあ瑠理子さん、絶対盗めないじゃない」 男は顔を上げられない。「いつ持ち出した?」「パーティーが始まる……一時間ほど前です」「どうやって?」「私は警備担当なので、バックヤードへ入る権限がありました」「なるほど」 直之の目が鋭くなる。「だから君が選ばれたのか」 警備員の指が震えた。「違う?」「……違いません」「誰に選ばれた?」「……」 百合絵が息を止める。(バラしたら承知しないから――!!)
その名前が出た瞬間、会場の空気が凍りついた。 百合絵の顔から、すっと血の気が引く。 しかし、次の瞬間には、激しく首を横に振っていた。「嘘よ!!」 甲高い声が響く。「この女、嘘をついてる!」「嘘じゃありません!」「だったら証拠を出しなさいよッ!」 百合絵が女へ詰め寄る。「私がいつ、そんなこと頼んだの!?」 女の髪の毛を掴む勢いだ。「百合絵」 直之が低く呼ぶ。「黙ってろと言ったのが聴こえなかったのか」「でも!」「彼女に圧をかけるな」「圧なんて……!」「じゃあ、そこで静かに聞いてろ」「……っ」 百合絵の足が止まる。 直之は再び女へ向き直った。「詳しく話して」「……はい」 女は震える手を握り合わせた。「数日前に……百合絵さんから連絡が来たんです」「どんな内容?」「御堂財団のパーティーで、瑠理子さんに少し恥をかかせたいって……」「恥をかかせたい!?」 百合絵が声を上げる。「そんなことは言ってないけど!」 直之が睨む。「黙ってろと言った」「……」 百合絵は口を閉ざす。 女は続けた。「最初は、私もここまでのことになると思ってませんでした」「……」「百合絵さんは、瑠理子さんが直之さんの婚約者だって勘違いしてるから、現実を教えてあげたいって……それで……」「違う!」「百合絵!」 直之の叱責が飛ぶ。百合絵が黙った。「続
ここからが本番だ。直之は追撃の手を緩めず、まずは女を見た。「君」「……」「自分のダイヤのブローチが盗まれたと言い出した本人だよね?」「は、はい……」「でも実際には盗まれていない」「……」 彼女は俯いて震えている。黙っているのが得策と考えているのか、なにも話さない。「自分で瑠理子のバッグへ入れたそのあと、『ブローチがない』と騒いだ」 事実を言い当てられた女が唇を噛む。「瑠理子のバッグを調べさせるために、そんなことしたんだ?」 女は答えない。「違うのか違わないのか、どっち? 今ここで正直に話した方が身のためだってわかるよね?」 直之は絶対に許すつもりはないことが、ひしひしと伝わってきた。 誤魔化しても、言い逃れることはできないだろう。 防犯カメラをもっとしっかり解析されれば、シラを切りとおすことなどできない。 なら、正直に話した方がいいと判断した。「はい……違いません」 か細い声で直之の言葉を肯定した。 会場がざわめく。 
「……」「それと」 直之が続ける。「瑠理子のバッグへ近づいた人物を、映像から抽出してもらった」「ちょっと……」 百合絵が一歩後ずさった。「何?」「そんなこと……しなくても」「どうして? 瑠理子が盗んだと主張するなら、映像を見れば君の言っていることが正しいと証明される。何も困らないよね?」「……っ」「それとも」 直之の目が細くなる。「映されたら困るものでもある?」「違うわ!」「なら見よう」 直之がスタッフへ合図した。 「スクリーンに映してください」「はい!」「待って! やめて!!」 百合絵が再び叫んだ。 しかしもう誰も彼女の言葉を聞かなかった。 パッ 会場の大型スクリーンが明るくなる。 数十分前の映像。瑠理子が、令嬢たちに囲まれている。「……」 映像が進む。 その背後で、一人の女が周囲を何度も確認しながら瑠理子のバッグへ近づいた。もちろん瑠理子はバッグを肩から掛けていて、デザイン上、バッグが完全に閉まるものではないため、小さなものくらいなら入れることができる。「……あ」 誰かが声を漏らす。 それもそのはず。手元がアップにされた画像が映っているが、女の手には小さく光る物――ダイヤのブローチだということがわかった。 その手が、もめて気を盗られている隙に瑠理子のバッグのすぐ上で、ダイヤのブローチを投下した。「……!!」 会場中が息を呑む。 ざわっ……「入れた……」「瑠理子さんが







